手段の目的化。「いそがしいよる」さとうわきこ著
星がきれいな夜、ばばばあちゃんは家の中にいるのがもったいなくて、ゆりいすを外に持ちだしてお星様をみていました。やがて遠くの森からお月さんも出てくるのを見ると、いっそのこと外で寝てしまおうと考えました。そこでベッドと毛布と枕を、それからお茶の道具も、そしてテーブルやレンジ、しまいには家のものを全部持ちだしてしまいます。
きょうは星を見ながら寝ましょう! と野外泊を決意したばばばあちゃんは、あれが必要かしら、これも必要だわね、と思い付くまま次々と外に運び出す。とにかく楽しそうだ。
子供のころ、この本をめくりながら「私だったらなにを運び出すかな」とわくわくシミュレーションした。あれやこれや考えているときが一番楽しい。旅行の準備に熱中するあまり当日寝不足になっちゃうみたいなやつだ。うっかり目的を見失うアレだ。よくある話だ。
コハシだったら何を持ち出そうと思うのか気になって、読み聞かせたあとで聞いてみた。
コハシはなにやら深く考えて、まず、
「荷物を出しているとき、雨が降っちゃうといけないから、最初から、傘でバリアしたほうがいいよ」
と言った。コハシの傘は、いままで持っていた45cmのものが身長に合わなくなったので、先日、一回り大きい50cmのものに買い換えたばかりだ。それを使いたいらしい。
「あと、テーブルは重たいから、ばばばあちゃんと、もう一人、いたほうがいいと思う」
と言う。保育園では、テーブルを動かすとき、いつも二人以上で運んでいるそうだ。一人だと大変だし、危ない、というわけだ。
それから、冷蔵庫を屋外へ持ち出したばばばあちゃんに対して、
「冷蔵庫は重たいから、運ぶなら、あと、100人、要る」
でもそんなに集めるのは大変だから、冷蔵庫は諦めるべきだ、と言った。なるほど。
最後にコハシは
「ばばばあちゃんは、お星さまを見たかったのに、どうしてこうなっちゃったんだろうねえ」
と首をかしげた。冷静な指摘だな。
「じゃあさ、じゃあさ、コハシだったら、どうする?」
「透明の傘を、たーっくさん合体させて、バリアをつくって、寝る」
コハシの新しい傘は、周囲が見えるように2面が透明になっている。それをうまいこと使いたいらしい。
コハシは「こんな感じ」と、うちにある傘を何個か広げてバリアを試作し、その中に入り込んで、満足そうに笑った。そして、持ち込むアイテムを検討しはじめた。計画を聞く限り、星空を楽しむという当初の目的はすっかり忘れている。
そうそう。ついついそうなっちゃうんだよね。で、それが楽しいんだよねえ。
それでも書くとは限らない。「絵本ダイアリー」グランまま社
以前、私はこのようなことを書きました。
まだコハシが産まれたてで、炊飯器みたいな音を立てていたとき、母が「あなたが好きそうなものを見つけたわよ」と、読書記録を付けるノートをくれた。「この子に本を読み聞かせるようになったら書いてみたら?」というので、それはいい、とコハシの手が届かないところに大切にしまった。背表紙がしっかりしている、素敵な本だった。と、思う。
なくしました。
この本がね、見つかりました。
本棚じゃないところから出てきた。
表紙がいい。表紙の紙の肌触りがいい。この写真で伝わるだろうか。
せっかくだから書こうかなあとも思うし、
どうせ続かないんだろうなあとも思っています。
新学期あるある!
※本の中身はこちらを参照→ 新刊情報 絵本ダイアリー
君が離れていくまでは。「シロナガスクジラ」加藤 秀弘 著、大片 忠明 絵/「もしもしおかあさん」久保 喬 著、いもと ようこ 絵
その日、コハシは不安定だった。ちょっとしたことで怒っては泣き、悲しんでは泣く。疲れていたのかもしれないし、何かのできごとがあったのかもしれない。家に帰ってきてから、しばらく一緒に遊んで、最近楽しみにしている妖怪ウォッチ シャドウサイドのアニメを一緒に見た。飼い主と死に別れた犬が妖怪になった話だった(第6話「わらうドッグマン」)。妖怪の正体が分かったあたりで、コハシは静かに泣き始めた。はらはら涙をこぼしながら、「悲しい。コハシは、犬橋とお別れしたくなかった」という。犬橋が亡くなったときはよく分かっていないようだったのに、最近は、犬橋がいなくなったことを明確にさみしがる。本当に、なんだか、元気がない。こんなときは早く寝よう。寝かしつけてしまおう。
「……よーし、きょうはお母さん、絵本を4冊読んであげる!」
「えっ4冊も!? いいの? なんで?」
「お母さんが読みたい気分だから! でも何を読むかはコハシが決めていいから!」
「やったー!」
というような感じで気分が浮上したコハシは、4冊の絵本をいそいそと選び、早々に歯磨きを済ませてお布団に入った。布団には、コハシが選んだ本が、読んでほしい順番に重なって置かれている。うちの本棚から3冊、保育園から借りてきた本が1冊。保育園の本は、私が初めて読む本だ。
まずはうちでお馴染みの本から読み始めた。1冊、2冊。いいぞ、なかなか順調な滑り出しだ。3冊目を手に取ったとき、書名を見て少し困った。大丈夫かな。この本を読むと、コハシは悲しい気分になりがちなのだ。それとなくほかの本を薦めてみるも、これがいい、という。そうですか。では読みましょう。
メスのシロナガスクジラの、出産や子育ての様子を紹介した本だ。冬は北極海などの高緯度の「つめたいうみ」で過ごしているシロナガスクジラは、妊娠すると、出産のために、低緯度の「あたたかいうみ」へ移動する。そして、子クジラが生まれ、育ち、遠距離移動に耐えられるようになると、母子は「あたたかいうみ」から高緯度の海へと移動を開始する。道中、母クジラは子クジラを外敵から守り、子クジラは母をまねながら生きる術を学ぶ。そして、ついに「つめたいうみ」が近づいてきたころ、2頭は別々の方向へ泳ぎ出すのだ。親子の関わりをロードムービーのように描きながら、クジラの生態を教えてくれる本だ。著者は東京海洋大学の鯨類学者、加藤先生。
このラストシーンで、コハシは泣き出すことがある。真っ暗な北の海を背景に(この本に出てくる個体は冬季を北極海で過ごすようだ)、母クジラの背は画面奥へと遠ざかり、小さくなっていく。それを見送るように水面から上がる子クジラの尾びれが、なんとも物悲しい。この展開がコハシに刺さってしまうと、コハシは「ふたりがバラバラになってしまってかわいそう、ずっと一緒がよかったのに」と落ち込んでしまう。
反対に、「もうオトナだからお別れなんだよねえー!」とニコニコしているときもある。さあきょうはどっちだ? きょうは……目に見えて落ち込んでいる。歯を食いしばって泣いている。そりゃそうだ。きょうはきっと、そういう気分だ。
気を取り直して最後の1冊を読む。最後に残っていたのは、保育園から借りてきた、私が初めて読む本だ。表紙では、いもとようこさんの描くふわっふわの猫が、笑顔で電話をかけている。かわいい、あたたかそうな、柔らかい切り絵に安心する。よし、これを読んで、気分を変えて寝ましょう。
……この本をご存じの方はもうお気づきのことでしょう。もくろみは完全に外れました。
母猫が3匹の子猫を産む。とてもとても、とてもかわいい。電話が鳴る。人間たちが電話で話している横で、子猫は育つ。ある日、急に子猫が3匹ともいなくなる。母猫の夢の中で、電話が鳴る。もしもしおかあさん。3匹の子猫たちが、かわるがわるおかあさんに電話をかけてくる。母猫が聞く。「いま どこにいるの」。子猫が答える。「ぼく だいちゃんちに もらわれてきたんだよ」。別々の家に譲渡されていった子猫たちの、それぞれの新しい家族との話を、母猫は笑顔で聴く。「また でんわするね」。そして、最後の電話を切ったあと、母猫は、ひとりぼっちで背中を丸め、ため息をつくのだ。ああだめだ、これはだめだ。きょうの、この日の流れで読むのはだめなやつだ。
案の定コハシは泣いた。おかあさんねこ、かわいそうだよう。
私も泣きたい。早く寝かしつけようと思った計画は水の泡だ。
電気を消して布団をかぶって、コハシは言う。コハシたちは離ればなれにならないよね。そうだねと私は答える。大丈夫だよ、なにも心配することないよ。いろいろな未来が頭をよぎったけれど、大丈夫だよ、離れたりしないよと布団の上からポンポンとコハシを叩いた。実のところこれは私自身の願望だなあと苦笑しながら、一緒にいるよと言い続けた。
一緒にいるよ。おとうさんもすぐに帰ってくるよ。明日になったらお友達と遊ぼう。仲良しのYくんも、すぐに風邪が治って保育園に来る。誰もいなくなったりしない。みんなコハシと一緒にいるよ。大丈夫、大丈夫。
コハシが寝落ちするのには、ここから数十分を要した。
ミクロネシアの薫風。「ぶたぶたくんのおかいもの」土方久功 著
まず、表紙を見てほしいわけです。だだ漏れる味わいを見てほしい。リアルな顔とデフォルメされた胴体がアンバランスな豚を、大胆なんだか弱々しいんだか分からないヘロヘロの題字を見てほしい。買い物かごの中のほがらかな人面の物体(パンです。「かおつきぱん」といいます)を見てほしい。私はもう、このへんのひとつひとつに、のっけから惹かれてやまないわけです。
ぶたぶたくんは、歩くときに「ぶたぶた、ぶたぶた」というので「ぶたぶたくん」と呼ばれています。ぶたぶたと口に出してみてほしい。この妙な気持ち良さを感じてほしい。私とコハシも「ぶたぶた、ぶたぶた」と言ってしまう。ぶたぶたくんはぶたぶたくんという呼び名が定着しすぎて、母親もほんとの名前は忘れてしまった。ここでタカハシは毎回「ひどい!」と呻いてコハシは笑う。しかしぶたぶたくんたちは全く構っていない。ぶたぶたくんのお母さんは、愛情たっぷりに「ぶたぶたくん」と呼びかける。
このぶたぶたくんのお母さんが、びっくりするくらいオシャレだ。頭にはおおぶりの花飾り、服はクラシカルなワンピース。上品な紫で全身を装っている。ぶたぶたくんにそっくりの「豚そのもの」のお母さんが、紫のドレススーツを着て、しかも似合っている。お見せしたい。この美しいマダムをお見せしたい。
この調子で私のお気に入りを書き綴るときりがないんですが、どうしましょうね。読んでいて、隅から隅まで楽しくてしかたない。
この絵本は、作者の好きなものをありったけ詰め込んでつくった箱庭みたいだ。画面には、脈絡なくヘリコプターが飛んでいる。飛行機も飛んでいる。富士山みたいな山がある。湖があって、畑があって、森がある。おおらかな造形の、個性豊かな住人たち。巨石文明の美術品を思わせる「かおつきぱん」。思わず口をついて出る、リズミカルな文章。それらぜんぶが、近所をお買い物して歩くだけの小さなおはなしの中に、気持ち良くおさまっている。
絵本の終わりに描いてある地図がまた楽しくて、というか巻末に地図がある絵本はみんなそうだと思うのだけれど、そこまで点で追いかけてきた物語が地図上の流れとして知覚できる気持ちよさ、平面の地図から物語が立ち上ってくるような豊かさがある。コハシは、この本を数回読むうちにすっかり地図を把握した。どこにどの店があって、ぶたぶたくんになにが起きて、だれとなにを話して……と、地図を指でなぞりながら物語を振り返る。その日、コハシが物語をどんなふうに楽しんだかが伝わって、私も楽しい。地図の上を、みんなで一緒に、「ぶたぶた、かあこお、くまくま、どたじた、どたあん、ばたん」、と進む。
この世界はどこにあるんだろう。作中からは読み取れないのに、私はここに南の島の雰囲気を感じる。作者がミクロネシアに長く住んでいたことを、この本を読む前から知っていたからかもしれない。
By Satawal_AKK.jpg: Angela K. Kepler derivative work: Viriditas (talk) - Satawal_AKK.jpg, Public Domain, Link
この本の作者、土方久功は、第一次世界大戦後の1929年から、第二次大戦の戦渦に太平洋が呑み込まれる直前の1942年まで、ミクロネシアに滞在していた。特に長く住んでいたのは、サタワル島(土方の表記に従えば「サテワヌ島」)という小さな島だ。ミクロネシア連邦の真ん中あたりに位置するこの島は、地形の関係で、大きな船が出入りできるような港がつくれない。列強が南洋を奪い合い、島々に異文化が流入する時代にあっても、サタワル島ではもともとの文化がよく保たれていた。土方はその島で7年間を過ごし、彫刻や絵画や詩を創作しながら、島の人々から民俗資料を採集し、記録した。
サタワル島は1平方キロメートルしかないとても小さい島だけれど、島民たちは独自のカヌーと航海術で、広大な海を自在に動き回った。この絵本の、箱庭のように小さな世界と、そこから感じる吹き抜けるような風通しの良さは、サタワル島のありかたに重なるように私には思える。
土方が手がけた絵本は私の知る限り4冊。うち1冊(『おによりつよいおれまーい』)は、サタワル島の昔話を描いたものだ。でも、私は『ぶたぶたくんのおかいもの』にこそ、南洋の空気を強く感じる。なんでなのかなあ。この絵本には、海はまったく出てこないのに。
完全に余談ですが、大阪の国立民族学博物館のオセアニア展示の目玉のひとつ「チェチェメニ号」はサタワル島のカヌーです。こんな小さな船でサタワル島から沖縄まで航海したというのだからすごい話だ。それと、チェチェメニ号の後ろで見切れているモアイがとても「かおつきぱん」っぽい。
土方久功その人の来歴も、とても不思議で魅力的だ。
この方の名前を私が知ったのは、なにかの調べもので、昭和初期のパラオの資料を見ていたときだった。当時のミクロネシア群島は日本の統治下にあって、中心地となったパラオのコロール島には、政府機関である「南洋庁」や、研究施設の「パラオ熱帯生物研究所」、NHKの前身の支局である「パラオ放送局」、民間企業などが集まっていて、多くの日本人が駐留していた。日本から遠く離れた地に赴任した人々は、職種を越えて交流し、一種のサロンのようなものを形成していたという。
その、生物研究所の研究者らとよく交流していた人物の中に、「土方久功」の名前があった。土方がサタワル島を出て、コロール島に移り住んだ頃の話だ。
そのときどの資料を見たのか分からなくなってしまったのだけれど、確かそこでは「南洋庁の嘱託職員」という肩書きで出ていたように思う。現地語を解し、現地の事情に明るく、島の民芸品や美術品などの収集と管理を任されていた人物、として登場していた。
ところで、当時の南洋庁には『山月記』で知られる中島敦も文官として赴任していた。中島の短篇紀行集『環礁』には、土方が「土俗学者H氏」の名で登場する。
H氏は今パラオ地方の古譚詩の類を集めて、それを邦訳しているのだ
(略)
私の変屈な性質のせいか、パラオの役所の同僚とはまるで打解けた交際が出来ず、私の友人といっていいのはH氏の外に一人もいなかった
仲良しー! どれくらい仲良しかというと、お互いに日記や草稿を見せ合うほどの仲良しだ。そして、一緒に南洋庁を辞して帰国してくるくらいの仲良しだ。土方の日記や著作では、中島は「トン(敦)ちゃん」と呼ばれている。微笑ましい。
中島の著作にも影響を与えたという土方の日記は、現存するものはすべて国立民族学博物館に収蔵されていて、戦前・戦中に書かれた31冊が『土方久功日記』として翻刻、出版されている。32冊目は、帰国した年の暮れ、中島が亡くなったころに書かれたはずだけれど、これだけが行方不明なのだそうだ。土方の生涯をまとめた本『土方久功正伝』の最後には、
この日記第32冊の所在が不明のままとなっていることは、残念でならない。この日記は土方久功研究、中島敦研究の貴重な資料となる。もし、土方久功日記第32冊の所在について、どなたかお心当たりの方がおられれば、お知らせいただきたい。
とあった。これは見つかってほしい。もしご存じの方がいらしたら、著者の清水久夫先生や国立民族学博物館にご一報を。
帰国後の土方は、柳田国男や金田一京助の知遇を得て民俗資料を編纂したり(『サテワヌ島民話』など)、木彫レリーフの個展を開いては高村光太郎に「現代化した原始美」と評されたりと、様々に活動していたけれど、絵本を手がけたのはずいぶんあとで、おそらく60歳を越えてから。福音館書店の編集者、松居直(『だいくとおにろく』の人だ!)に請われてのことだという。
……ここまでのことを知ってはじめて、私は「へえ、どんな本なんだろう」と本屋に行き、『ぶたぶたくんのおかいもの』に出会うことができた。もっと早く、小さいころに読んでみたかったなあ、と思う。たとえば、親におかいものを頼まれるくらい子供だったころに読んでみたかった。
まだ読んでいない人にはぜひ読んでほしいです。この奇妙で、風変わりで、楽しくて、気持ちのよい本を見てください。パン屋のファンキーなおじさんを見てほしい。八百屋のアヴァンギャルドなお姉さんの、鮮やかなオレンジのスーツ姿を見てほしい。お姉さんのせりふは早口で音読してほしい。そしてお菓子屋さんのおばあさんのせりふはゆーーーーっくり音読してほしい。こぐまくんに「ここまできたら、このまま さきへ いくほうが ずっと ちかみちだよ」と言われたときの奇妙さを味わってほしい。買い物かごをさげたカラスを、なんともいえない「かおつきぱん」を、見てほしいのです。いいから。とてもいいから。かおつきぱん、パンなのに顔が微妙に動くから。このパンを食べると思うとちょっと躊躇するな……でも食べてみたい……ぶたぶたくんが買った「いちばんのかおつきぱんのじょうとうぱん」を食べてみたい……。
このまま書いていると止まらないので、この辺でやめます。
ばあい。(←ぶたぶたくんの別れの挨拶)
おによりつよいおれまーい(サトワヌ島民話) (「こどものとも」人気作家のかくれた名作10選)
- 作者: 土方久功
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怖いオオカミと、図鑑のティラノサウルスについて。 「おまえうまそうだな」「きみはほんとうにステキだね」宮西達也 著
前回の恐竜図鑑の続き。
コハシは、図鑑を読んだり動画を見たりしているうちに、肉食恐竜と草食恐竜を見分けられるようになった。見分けが付くと楽しいよね。恐竜図鑑を見ていても「これは肉食、これは草食」と口に出して、「合ってる?」と大人に確かめては得意げにしている。滅多に外さない。すごいすごい。
ところが、あるときから「これは肉食だから悪いやつ」「これは草食だからやさしい」と言うようになった。
おっ、そう来たか、と思った。
コハシがその言い回しをするようになったきっかけは、保育園で借りた宮西達也さんの恐竜絵本だ。散々恐竜コンテンツに触れてきた中で、初めての変化だった。それだけ鮮烈な印象を受けたんだろう。
私たちが読んだのはこの2冊。
どちらも主人公はティラノサウルス。肉食恐竜だ。
- 作者: 宮西達也
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この2冊には、肉食恐竜は凶暴で狡猾、魚食・草食恐竜は善良で純真という「お約束」がある。物語は、この「お約束」を前提に展開する。物語のはじめ、主人公のティラノサウルスは「あばれんぼうでいじわるでずるくてじぶんかってなきょうりゅう」だし、途中で出てくる脇役の肉食恐竜も、同じような性質の生きものとして描かれる。
2冊の物語は、それぞれ筋は違えども、主人公が「あばれんぼうな恐竜」という枠組みをはみ出して、「やさしい恐竜」と触れ合うことで思いやりを獲得していく、という流れになっている。
主人公の改心は、ほかの恐竜をいじめること(≒狩り)をためらったり、優しくしてみせたり(≒捕食しない)と、肉食恐竜としての行動を否定することで表される。その上、主人公のティラノサウルスは、木から採った「赤い実」を食べさえもする。この「赤い実」を介して、主人公と「やさしい恐竜」との関係はますます深まっていく。
これらのエピソードのひとつひとつが、力強い絵柄と相まって、とにかく説得力が強く、印象的なのだ。
コハシさんが「肉食恐竜イコール悪いやつ」となったのも分かる。よく分かる。……分かるけど、どうしたもんかなあ。
昔話でおなじみの、怖いオオカミ、ずるがしこいキツネ。物語の中でなんらかの性質を仮託された「オオカミ」と、図鑑に出てくるオオカミ、実際に生きているオオカミは違うはずだ。でも、なにがどう違うんだっけ。なんて説明したらいいんだろう。そもそも説明する必要があるんだろうか。「ティラノサウルスが暴れん坊だっていうなら、エラスモサウルスもなかなかの暴れん坊だったと思うよ」とでも伝えるの? それに、あの赤い実、両者の関係性を象徴する道具立ての意味合いが強いあの「赤い実」も、「ほんとのティラノサウルスは植物食はできないんだよ。でも、食べられなくても悪いやつってわけじゃないんだよ」とか言えばいいのかな? 無粋じゃない? 無粋な上に本質から外れてない?
結局、私は、「ええと……肉食だから悪いやつってわけじゃないんだよ……むにゃむにゃ……」みたいなことしか言えなかった。
そんな寝言みたいな言葉でコハシに伝わるか! 相手は映画化したくらい強い物語だぞ!
伝わりませんでした。
伝わらなかったけど、ほかの恐竜絵本をいろいろと読んでいるうちに、ひとりでに「肉食恐竜だから悪いやつ」と言うことはなくなりました。
恐竜図鑑つれづれ。「講談社の動く図鑑 MOVE 恐竜」・「学研の図鑑 LIVE 恐竜」
図鑑はコハシには重い。それを大事そうに抱きかかえて、キラキラした目で「これがいいの。おうちのとならべて、おみせやさんごっこするの」と言う。いやー、通なチョイスだなー。いちおう、もう一回、お店の中をぐるっと回って、ほかの本も見てみようか。 ……どう? どれにするか決めた? そうかー。やっぱり恐竜図鑑かー。
そういう経緯で、うちには恐竜の図鑑が2冊ある。
なぜ最初に『MOVE』の図鑑を持っていたのか。私たちが図鑑を手にしたころ、『LIVE』シリーズは「乗り物」系の巻が出ていなかったからです。『LIVE』の付録DVDに使われているのは、BBC制作の映像。BBCはイギリスの放送局なので、日本の電車の映像資料はなかったんでしょう。その点『MOVE』シリーズはNHK制作の映像を使っているので、初期から「鉄道」の図鑑が出ていました。うちはまずDVD目当てでそれを買い、その流れで恐竜のほうも『MOVE』を買っていたのでした。のちに出た『LIVE』の鉄道図鑑は学研オリジナル映像を使っているそうで、ご苦労がしのばれる。
もっと振り回されたかった。「アル どこにいるの?」バイロン・バートン 著
ポップな絵柄とカラフルな色彩の絵本。犬の「アル」が迷子になってから、飼い主の男の子に再会するまでの顛末が、言葉少なく描かれています。童話館ぶっくくらぶでは1〜2歳向けに配本されているとか。明るく、楽しい絵本です。
だから今からここに書くことは、私の身勝手な感傷でしかありません。私の義妹、犬橋の話をします。
犬橋は、タカハシの実家にいたビーグル犬です。コハシが生まれた時には既にかなりのおばあちゃんで、コハシが一緒に遊べる頃にはもっとおばあちゃんになってしまって、それでもよく付き合ってくれました。いろいろ患いながらも、 ずっと元気でいてくれて、数年前の夏の夕方に眠りにつきました。17歳でした。
犬橋がいなくなってから初めて帰省したのは、その年の暮れでした。荷造りのとき、持っていく絵本をコハシに選ぶように言ったら、乗り物の本を数冊と、この本を本棚から持ってきました。
それらを荷物に詰めてタカハシの実家に行くと、義父が犬橋のお墓に案内してくれました。庭の端っこの、日当たりの良い、道がよく見えるところに、犬小屋のミニチュアのようなものができていて、中に犬橋の好物が供えられていました。
「犬橋はいつもここで道をパトロールしていたからなあ」と義父が言い、
「犬橋、寝ちゃったから、もうお散歩しないんだよねー」とコハシが言いました。
夜、客用布団に寝転んで、この本をコハシと読みました。義母はいつも、私たちのために、よく日に当てたふかふかの布団を用意してくれます。シーツも洗いたてです。犬橋はその布団が好きでした。義母の目を盗んでは、真ん中の一番ふわふわのところに寝転がって、ぺたんこに潰して、シーツを毛だらけにしました。よだれも付けました。犬橋のよだれは、ちょっとなまぐさい。それで義母にいたずらがばれます。犬橋は爪をチャッチャッと軽やかに鳴らしながら義母から逃げて、タカハシや義父の後ろに隠れました。逃げ足はのんびりでした。
この絵本の「アル」の走りは速そうです。垂れ耳を翻して、男の子と力いっぱい遊んでいる。絵本は、夢中になって遊ぶうちにお互いを見失うところから始まります。
見開きの左側のページに男の子。右側にアル。ばらばらになってしまった二人の様子が、同時進行で描かれます。それぞれが不安げに一夜を過ごし、明くる日はお互いに街中を走り回る。1ページ前に男の子が迷い犬の貼り紙をしたと思ったら、次のページではその貼り紙の前をアルが走り過ぎるという具合に、韓国ドラマと見紛うすれ違いを見せます。コハシからは「ここ、さっき男の子がいたのに見えなかったのかなあ」「なんで待たないの?」とコメントが飛んできますが、地の文がない絵本なので、都度てきとうな話をつくって答えます。
アルの傍若無人な走りに周囲はどんどん巻き込まれて大変なことになってしまうのですが(自分がこの子たちの親だったらと思うと恐ろしい。謝罪……弁償……)1人と1匹はそんなことおかまいなし。お互いの姿を見つけて脇目も振らず駆け寄ります。抱きつく男の子。飛びつくアル。2人の嬉しそうな顔と言ったら!
犬橋とコハシがこんなふうに遊べたのは、ほんのわずかの時間でした。コハシは幼すぎたし、犬橋は歳をとりすぎていた。貴重な時間だと分かっていたから、2人に振り回されるだけで私たち大人は嬉しいばかりでした。でも、この絵本の大人たちのように、嫌になるくらい振り回されてみたかったなあとも思います。犬橋とコハシのいたずらに、義母と私で「まったくもう!」と怒ったりしてみたかった。私たち大人そっちのけで楽しそうにくっつく犬橋とコハシを、もっと見ていたかった。
コハシがふかふかの布団に埋もれるように寝入ったあと、布団の匂いを嗅いでみました。いくら嗅いでも、どこからも、いい匂いしかしませんでした。