まず米、そして野菜

最初は離乳食の記録、途中からは読書の記録。

1000000000000匹の猫のバトルロワイヤル。「100まんびきのねこ」ワンダ・ガアグ 著、石井桃子 訳

前回の更新からずいぶん間が空きました。それというのもコハシの保育園が絵本の貸出を始め、急に読む絵本の種類が増えたからです。読んでいる。凄い勢いで読んでいる。そして記録がちーとも追いつかない。しかたない。しかたないんだ。 

最近のコハシは物語を物語として楽しめるようになり、「長い絵本がいい」と文字が多めの絵本を選ぶようになりました。まだ自分では読めないので、その「長い絵本」は、私が音読することになります。コハシは注文が多い。早口で読めばクレームが付いて、最初から読み直しです。とにかく厳しい。 

この『100まんびきのねこ』も、文字が多そうだという理由で保育園から借りてきた。 

100まんびきのねこ (世界傑作絵本シリーズ)

100まんびきのねこ (世界傑作絵本シリーズ)

 

主人公は、表紙中央に描かれているおじいさんだ。猫を飼いたいおばあさんのために、おじいさんは猫を探しにゆく。表紙以外の絵は白黒で、細い線でみっしりと描かれている。見開きいっぱい、いくつもの丘を越えて細く長い道が蛇行している絵は、見ているとどこか不安を覚える。落ち着かない。 

その道の先にいるのが、“ひゃっぴきのねこ、せんびきのねこ、ひゃくまんびき、一おく、一ちょうひきのねこ”だ。驚くおじいさんの前に、見渡す限りにひしめく、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫。

異様である。 

先が気になって、コハシがうとうとしているのをいいことに無言でページをめくったら、その時だけカッと目を開いて「読むの早い!」と叱咤してきた。厳しい。 

おじいさんはどの猫もきれいでかわいく思えてしまって、”そこにいるねこをみんなひろいあげて、つれていくことに”なってしまう。気持ちは分かるが安易な多頭飼いは不幸のもとだぞ。大丈夫かおじいさん。黒くねっとりとした線描も相まって、話運びにも不穏な空気が漂う。なんだろう、この本は。不気味なのにユーモラスで、目が離せない魅力がある。

この独特な世界を描いた作者がアメリカ人だと知って意外に思い、出身地が東欧系移民が多い地域だと知って、なるほどそれでこの作風なのかしらと分かったような気持ちになった。“ガアグ(Gág)”という聞き慣れない名字は、ボヘミア出身の父親のものだそうだ。

リトグラフにも手描きにも見えるけど、なにで描かれているんだろうなあ。日本語だけではよく分からなかったので、どなたかご存じでしたら教えてください。私に分かったのは、この本が1928年に出版されたことと、どうやら初めて見開きで描かれた絵本だということ。なんてこった。エポックメイキングな1冊ではないですか。

物語は、見開きをうねるように流れながら、怒濤の展開を見せる。おじいさんちの飼い猫の座を賭けて、“ひゃっぴきの(略)、一おく、一ちょうひきのねこ”が、一斉にけんかを始めるのだ。画面いっぱいにひしめきあう猫のけんかシーンはさながら黙示録、その大騒動ののちに大量の猫は突然消えうせ、周囲は静まりかえり、残ったのはたった1匹。……バ、バトルロワイヤルだー。

その後の絵からはすとんと不気味さが抜けて、左右対称の安定感のある構成になり、残った子猫の姿は平和そのもの、最後のページの寝姿は特に愛らしく、印章の柄のように落ち着いて見える。見れば見るほどよくデザインされた絵だなあ。

うとうとしていたコハシは、この怒濤の展開をどう聴いていたのか、はたまた聴いていなかったのか、最後に残った子猫について「なんでこのねこ汚れてたの?」と言い、「なんでかは分からないけれど、いまはご飯をたくさん食べて、元気になって、よく寝ているね」と最後の寝姿を見せながら応えたら、納得したのかもごもご何かを呟いて、こてんと寝ました。

 

www.wandagaghouse.org

↑作者の生家が資料館になっている。作品の概要なども。

Wanda Gág papers, 1892-1968

ペンシルベニア大学のワンダ・ガアグ紹介ページ。英語。ここをちゃんと読めば私の知りたいことが書いてありそうな気がするがまだ読んでいない(読めない)。

ブルータスよお前もか。「おばけなんてないさ」「ねないこだれだ」瀬名恵子 著

コハシは今のところ、おばけのことは怖くない。コハシが怖がっているのは、一に鬼、二に暗闇だ。鬼は、節分のせいですっかり恐ろしいものになった。豆で退散させられると分かっていても怖いものは怖い。暗闇が怖くなったのは割と最近のことで、暗い部屋や、電気が付いていない玄関を怖がるようになった。トイレは自動で電気が付くので怖くない。

それらに比べ、おばけはユーモラスで取っつきやすい存在だと思っているふしがある。『おばけなんてないさ』の歌の影響もありそうだ。せなけいこさんの絵本には、槇みのりさんによる歌詞が5番までまるまる全部載っていて、あのおなじみの、猫目の真っ白なおばけたちが、歌詞にあわせて楽しそうに合唱したり踊ったりしている。バンジョーみたいな楽器を持ったおばけもいる。かわいい。最後のページには楽譜まで付いているので、頑張れば弾き語りもできる。私はあんまり頑張れないので、とにかくコハシと一緒に歌う。これを寝かしつけのときに持ってこられたら長期戦を覚悟しなければならない。歌っている間にコハシの目が冴えてしまうからだ。私にとっては恐ろしい本だ。

ねないこだれだ』のおばけは、『おばけなんてないさ』に出てくるおばけと同じ姿形をしている。「おばけの せかいへ とんでいけ」と言われても、想像するのは陽気にバンジョーをかき鳴らすおばけたちが歌い踊る世界だ。一向に怖くない。ふくろうもどらねこもコハシは好きだし。どろぼうのことはよく分かっていないし。

ちなみにコハシは「どろぼう」と言えずに「どぼろう」と言う。ちょっと前までは「ぼろどー」と言っていたので、正解に近づいたのかな。そうでもないか。

このところ、コハシは絵本を読み終わると毎回、「この子、なんでおばけになっちゃったの?」と言う。「おばけが『まだ寝てない子、みーつけた』って、連れて行っちゃったんじゃない?」と答えると、「早く寝ないとだめだよねえ」と、したり顔をする。まるで自分は早く寝ているような口ぶりだ。胸に手を当てて、おのれの振る舞いをよく思い返してほしい。

先日もコハシはいつもどおりに「なんでおばけになっちゃったの?」と聞いてきた。しかし、そのとき読み聞かせていたのはタカハシだった。いつもの問答を知らないタカハシは、「誰かが『まだ寝てないひとがいます。おばけさん、連れてっちゃってください』って電話でおばけを呼んだんじゃない? お父さんも呼んでみようか。もしもしー?」と電話を掛けるふりをしてみせた。

コハシは、思いがけない裏切りにあったかのように愕然として、タカハシを凝視したまま立ちすくんだ。腹心の部下ブルータスに刺されたユリウス・カエサルはこんな顔をしていたのかもしれないと思えるような、真に迫る表情だった。 

おばけなんてないさ (せなけいこのえ・ほ・ん)

おばけなんてないさ (せなけいこのえ・ほ・ん)

 

  

ねないこだれだ (いやだいやだの絵本)

ねないこだれだ (いやだいやだの絵本)

 

 

負けない。「しょうぼうじどうしゃじぷた」渡辺茂男 著、山本忠敬 絵

前回の記事 《私が気付きたかったのに。「しゅっぱつ しんこう!」山本忠敬 著》 の続き。

 絵本「しゅっぱつ しんこう!」にじぷたTシャツが隠れているのを見つけたタカハシは、それはもう勝ち誇った。「じぷた、ね。人気ですよね。ほかの絵本にも出てくるくらいに。まあ窪橋は気が付いていなかったようですけれども」などとニヤニヤしながら言う。悔しい。

 ところがタカハシは、ここまで言っておきながら、「じぷた」を読んだことがない。コハシがこの本に興味がないからだ。「じぷた」は、いまのコハシには文章が長すぎるようだ。絵柄に惹かれて読み始めても、私が読み終わる前にどんどんページをめくってしまい、話を楽しむところまではいかない。絵そのものには「はしごしゃ! きゅうきゅうしゃ!」といい反応をしているので、もう少ししたら好んで読むことになりそうだ。

 タカハシは、コハシへの読み聞かせでもなければ絵本を積極的に読んだりしない。それがまた悔しいので、とにかく読んでみろ、と薦めてみた。すてきなおはなしなんだ、一緒に面白がろうではないか。

 そこで、タカハシが興味を持てるようにこの本の内容を紹介してみた。

  • 持って生まれた特性のせいで活躍できなかった作業員が、短所を長所に、マイナスをプラスに変えて、専用の部署が新設されるほどの大きな成果をあげるサクセスストーリーだよ!
  • ぐるんぱのようちえん」が転職を繰り返すことで自己実現を果たすおはなしなのに対し、こちらは職場はそのままで、自分の適性にマッチした業務を新規開拓して居場所をつくるおはなしだよ!

 「どうだい、読みたくならないかい」

 これを聞いたタカハシは、目をそらせながら「そういうことなら、まあ……」と、この本とぐるんぱのようちえんを読み比べはじめた。よしよし。よい本を紹介した妻に感謝して読むがいい。

 しばらくすると、本を読み終えたタカハシがニヤニヤしながら近づいてきた。手には、山本忠敬さんの別の著書「ずかん・じどうしゃ 」を持っている。

 タカハシは「じぷたのナンバープレートの数字は6110だよね。で、この図鑑の消防車のページを見てほしいのだけれど」と、ページの左上の車を指し示した。するとそこには、じぷたと同じ形、同じナンバーの消防車、つまりじぷたが描かれているではないか!

 なんだこのじぷた。猫が助手席に乗ってる。かわいい!

 動揺する私を見て、タカハシは口の端をゆがめて「やはり気が付いていなかったようだな。いや、だからどうということはないのだけれども」と本棚に本を片付け、悠々と立ち去った。この私の悔しさがお分かりいただけるだろうか。私は負けない。今年こそタカハシを倒す。 

しょうぼうじどうしゃじぷた

しょうぼうじどうしゃじぷた

 

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ずかん・じどうしゃ (福音館の幼児絵本)

ずかん・じどうしゃ (福音館の幼児絵本)

 

今週のお題「2017年にやりたいこと」

私が気付きたかったのに。「しゅっぱつ しんこう!」山本忠敬 著

 一つ前の記事で取り上げた「でんしゃにのったよ」は、この「しゅっぱつしんこう!」のオマージュではないかと勝手に想像している。どちらも出版社は福音館書店。前の「でんしゃにのったよ」の発表は2009年で、内容は「ぼく」とお母さんが山あいの町から電車を3つ乗り継いで東京の親戚に会いに行くというもの。こちらの「しゅっぱつ しんこう!」は1982年の作品で、「みよちゃん」とお母さんが電車を3つ乗り継いで都会から山あいの町のおじいさんに会いに行く話だ。鉄橋など、出てくる舞台にも共通点は多い。

 だが、読んだときに受ける印象はかなり違う。並べて読むと、同じ題材でも作者が変わるとこうも違うのだなあ、と贅沢な気分になれる。コハシに「でんしゃにのったよ」を贈るとき、この「しゅっぱつ しんこう!」も一緒に買ってきた。ほぼ毎日2冊とも読まされるので、毎日毎日贅沢な気分だ。「都会/田舎」の地理感覚がないコハシは、この2冊を全く別の話として楽しんでいる。

 山本忠敬さんの絵は、大人っぽい。リアルで、硬質で、甘さが少なくて、乗り物が持つ質実剛健な魅力が伝わってくる。

 絵の構図もかっちりと決まっている。鉄橋の上で電車がすれ違っているところなど、鉄道会社のポスター写真のようで、とにかくかっこいい。東洋経済オンラインが山本忠敬さんを紹介した記事 《鉄道マンを育てた「幻の絵本」がついに復刊! 乗り物絵本の第一人者が描いた「山手線一周」》 に、編集のかたの「若い頃歌舞伎が好きだった山本先生は、大事な場面では乗り物が読者に語りかけるように『見栄を切らせる』のだとおっしゃっていた」という発言があって、なるほどと思った。これは電車が見栄を切っていたのか。

 みよちゃんたちが電車を乗り換えるたびに「しゅっぱつ しんこう!」という決め台詞が入るが、そういえばこれも歌舞伎の掛け声に似ている。コハシはこぶしを振り上げて、私の音読に唱和する。「とっちゅーれっしゃ、しゅっぱつ、しんこう!」と、勇ましい顔で叫ぶ。

 作者ご本人の解説によると、この絵本は「取材の旅での私の心象の風景と時間の中を走っている列車の架空の旅のお話」なのだそうだ。仙台から特急はつかりに乗って、山のふもとの盛岡駅へ。山田線の急行に乗り換えて山の中の茂市駅まで行き、岩泉線の鈍行で、おじいさんの待つ浅内駅へ向かう。平野から山へ。風景の中には新幹線あり、飛行機あり、牛(!)ありで、とてもとても楽しい。

 タカハシはこの絵本を見て「ずいぶん渋い絵を描く人だなあ」と言った。知識量でタカハシに勝てることがあまりない私は、ここぞとばかりに得意になって「乗り物絵本といえば山本忠敬さん、山本忠敬さんといえば乗り物絵本、というほどの作家さんだ。覚えておくべきだ」と熱弁をふるった。ふるってやった。さらに「君も子供のころに読んだことがあるのではないか。代表作の『じぷた』の名を聞いたことはないか」というと、タカハシは「聞いたことはない。が、『じぷた』というのはこのページに描かれている『ZIPUTA』のことか」と、この本の最初の見開きを指し示した。驚いて見てみると、はくたかに乗り込むみよちゃんたちの手前、急ぎ足の通行人が「じぷた」のTシャツを着ているではないか。

 なんだこのTシャツかわいい。すごくかわいい。欲しい!

 動揺する私を見てタカハシは「これを見落としているとは、好きだという割には読み込みが浅いのではないか」と鼻で笑った。ギイイイイイイイイイイイイ悔しい。私が! 私が先に気付きたかった!!

しゅっぱつしんこう! (福音館の幼児絵本)

しゅっぱつしんこう! (福音館の幼児絵本)

 

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初めて自分で探し出した本。「でんしゃにのったよ」岡本雄司著

 図書館の絵本コーナーにコハシを連れて行ったとき、私も初めて図書館に来たような気分になった。この町に住み始めてからいままで、子供向けコーナーには来たことがなかったからだ。絵本の並びは独特だ。普通なら著者名で五十音順に並んでいるところが、タイトルで五十音順だったり、対象年齢別に分かれていたり、テーマ別になっていたりする。どこからどう探せばいいのか、しばらく呆然と本棚の間をさまよった。定番のアレも有名なあの人の著作も見つからない。検索機で探すにも、横から手を出してくるコハシを止めるのに忙しくて進まなかった。通い慣れたつもりの図書館が知らない場所のように思えた。

 コハシはふらふら好き勝手に歩き回って、小学高学年向けの地下鉄の図解と、小学低学年向けの電車の本を数冊、それから幼児向けの絵本をあっという間に選び出した。私が本の海で迷子になっている間に、目的に合致する本を的確に選んでいる。文字が読めないのになんなんだ、その嗅覚。すごいな。

 早速、子供コーナーの小さな椅子に座って読む。やはりコハシの心を捉えたのは幼児向けの絵本だった。中でもこの「でんしゃにのったよ」への食いつきは強かった。お母さんと小さな男の子の二人連れが、ローカル線から新幹線へと電車を乗り継いで、東京に出る様子が描かれている。電車の描写は迫力があって、表紙のかわいらしい印象がいい意味で裏切られた。大きくカーブしながら鉄橋へ突き進む電車の、ダイナミックなうねり。ターミナル駅の、がらんと広い空っぽのホーム。そのホームに現われる、大きな大きな新幹線。コハシは声を上げて喜んだ。風景の中にも、貨物列車があり、山手線や京浜東北線などの通勤電車があり、東京駅ではいろいろな新幹線が一同に並び、とサービスシーンたっぷりだ。コハシはホーム→新幹線登場のページを何度もめくってうっとりしている。よし、借りて帰ろう。

 貸し出し手続きの意味がさっぱり分からないコハシを何とか説得して(持って帰るのが大変な分厚い大型本を諦めてもらわなければならなかった)、この本を含めた数冊を借りた。家でも一番読み返したのはこの本だ。繰り返し読んでいくうちに、コハシにも話の流れがつかめるようになった。男の子とお母さんは、地方の小さな町に住んでいて、そこから電車を三つ乗り継いで、東京に住むいとこに会いに行くのだ。お父さんは地元の駅まで車で送ってくれて、改札でバイバイする。コハシはそのシーンを「おとうさんは、おしごとだから、おるすばん」と理解した。他にもいろいろと独自に理解を深めた。のりかえは、はしったら、だめ。おべんとうをかったら、かいだんは、ゆっくりのぼらないと、あぶない。おかあさんは、つかれたから、しんかんせんで、ねちゃう。……そうだね、私もたぶん寝るわ。いとこの家族は東京駅まで車で迎えに来てくれている。このお母さんはさぞ助かっただろう。東京駅からまた乗り換えだったら辛いよね。いとこの家の車はかわいい形をしていて、電車と同じくらい魅力的に見える。久しぶりに会った親戚と乗る「ぼく」はとても楽しそうだ。

 この本が最初に出たのは2009年。描かれている風景は20年くらい前のものに見えるけど、いつが舞台なのかなあ。モデルになった電車は、ネット上の電車好きさんたちが読み解いてくれているところによると、最初に乗ったローカル線が大井川鉄道で、最初の乗り換え駅は金谷。そこから東海道線のかぼちゃ電車に乗って、静岡駅から乗っているのは300系こだまだそうだ。分かる人なら、電車や車の車種からこの絵本の舞台となった年代も推測できるだろうけれど、私はちょっと分からない。

 実在の電車たちを端正な線で描写したこの絵は、木版画によるものなのだそうだ。とても素敵だ。この作者の絵本をもっと読んでみたくなったけれど、もう一冊の著作「くるまにのって」は残念ながら出版社在庫なし。地元の図書館には閉架書庫に一冊だけあるようだ。万が一コハシが傷めてしまっては申し訳ないので、借りるのはもう少しコハシが大きくなってからにしようと思う。

 コハシは、毎日寝る前にこの本を読みたがった。読むたびに楽しむポイントが変わる。海沿いの工場で修理中の車を見つけたり、駅ナカのお弁当屋さんを見たり、飽きることがない。図書館に返した後も「ない、ない」と探し回っているので、これはもう買うしかないな、となった。よし、買おう。手元に置いて何度でも読もう。ホームに入ってくる新幹線を見て、何度だって声を上げよう。そうして手に入れて半年以上がたった。コハシは昨日もこの本を楽しんだ。

でんしゃにのったよ (こどものとも絵本)

でんしゃにのったよ (こどものとも絵本)

 

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島田さん。「3月のライオン」12巻までの感想

 12巻目は、物語の本筋からしばらく離れていた島田開八段が少し顔を見せたところで終わっている。ここで島田さんが出てくるのか、たまらんな、と思った。

 私は島田さんが気になって仕方がない。島田さんは、宗谷さんや土橋さんのように将棋がないと生きていけない人ではないし、桐山さんや二階堂さんのような強烈な外的要因があるわけでもない。島田さんには、故郷の人たちがついている。もし島田さんが穏やかな生活をしたいと望めば、いつでもできるに違いない。彼にはその能力も基盤もある。夢の中で「ええんだよ、開、プロになんてなれなくたって」と柔らかく語りかけた「じんちゃん」は、現実でも同じように暖かく迎えてくれるはずだ。逃げ道がある中で戦いつづけるのはどんな心境なんだろう、と思う。その意志の強さが私にはまぶしい。

 じんちゃんたちもさぞかし心配だろう。島田さんは、身を削りながら最前線に立っている。シリアスには胃痛、コミカルには抜け毛で描写されている島田さんの苦しみを、故郷の人たちが知らないわけがない。応援するのがつらいときもあるんじゃなかろうか。私ならつらい。島田さんみたいな人が家族にいたら私はキツい。

 戦う人の近くにいることは、それだけで覚悟がいる。6巻で相米二おじいちゃんは、いじめに泣きながら立ち向かおうとするひなちゃんを「胸を張れ!」と激励する。このコマでは、背景の仏壇がコマの真ん中に描かれていて、まるで二つの位牌が相米二さんに寄り添っているように見える。この位牌こそが、孫を猫かわいがりしたくて仕方ないはずの相米二さんが背負う覚悟なんだろう。相米二さんの涙目が私にはたまらない。私にはこんな覚悟はない。『3月のライオン』では、登場人物たちは何度も戦う覚悟を問われる。「お前はそれでも二階堂にこんなむごいことをしてやれるか」。厳しい。無理だ。物語の中には戦う人のそばにいることで心が折れた人の姿も描かれるが、私は確実にそっち側の人間だ。

 4巻で島田さんは、宗谷さんとの対戦を前にぼろぼろになりながら、天童駅の横断幕を回想する。その姿になんともいえない気持ちになる。故郷の煤けた段幕に意味なんか見いださなくていいんだ。まして、自分のこととして背負わなくたっていいんだ、そんなに胃が痛いなら。でも、二階堂さんが「楽しい子供時代なんて平気でかなぐり捨てた」ように、島田さんも幸せな生活をかなぐり捨ててここまできた棋士なんだろう。「みんなの期待も恩もどうしてもムダにはできなかった」といいながら、その実、その道を選び取っているのは彼自身だ。

 そんな島田さんが、12巻の終わりであかりさんと出会った。いじめられるひなちゃんを案じて 「逃げて欲しかった」と絞り出すように泣いていたあかりさんとだ。あかりさん自身の戦いが終わったこのタイミングで、だ。たまらんなあと思った。彼らが近しい人たちだったらとても見ていられない。それでも心配で、気になって仕方がない。読者という安全圏から島田さんたちを見ていられることを、私は強く喜ぶ。

3月のライオン 12 (ヤングアニマルコミックス)
 

赤子にばかりかまけてはいけない。「とびだす! うごく! のりもの」 わらべきみか 著

これも神保町ブックフェスティバルで母が買ってきたしかけ絵本だ。手のひらサイズの小ささながら、しかけに関しては、前述の「ごあいさつ」「じどうしゃがいっぱい」と比べると本格的で、題の通りに本当に「とびだす」し、「うごく」。はしご車のページを開けば、はしごが勢いよく伸びる。クレーン車が鉄骨を引っ張り上げる動きもよくできている。「うまいこと作るものだなあ」と何度もぐにぐに動かした。

このタイプの本は、傷まないようにビニールカバーで個装されて売られている。母が買ってきてくれた当初、コハシは1歳だったか2歳だったか、とにかく「コハシ・ザ・破壊神☆」というお年頃だったので、落ち着いて読める時がくるまで袋をかけたまま置いておこうということになった。コハシの手が届かないように、本棚の高いところに置いた。

ところで、私の実家には、諸々の決まりごとを天然ボケで吹っ飛ばすジョーカーキャラが生息している。私の父だ。

父は、この本を隠すに至る私と母のやり取りを見ていたはずだが、忘れてしまったのか、はなから聞いていなかったのか、この本をコハシに渡してしまった。目新しい絵本ならもっと手の届きやすい場所に何冊もあったのに、わざわざ奥に隠した絵本を見つけ、持ち出し、袋を開けて、コハシに渡してしまうところに、私の父のミラクルさがある。

破壊神であるとともに乗り物スキーでもあるコハシは、当然大喜びし、力一杯ページをめくろうとした。間一髪のところで止めたのは母だ。紙のはしご車の華奢なはしごは、ゆるく折れ曲がるだけで済んだ。

その後、この本は厳重に管理され、数ヶ月前にようやく解禁された。コハシは特に救急車とゴミ収集車が気に入って、「この人(救急車に運び込まれたケガ人)、どうしたの? 痛いの?」「ごみしゅうしゅう、ゴーーー(ごみを回収するときの機械音のものまね)」と楽しそうに喋りながらページをめくっている。いやあ成長したものだ。よかったよかった、とコハシが好きに読むのに任せていたところ、昨晩、コハシが「破けちゃった……」と悲しそうにこの本を持ってきた。幼稚園バスのしかけがどうなっているのか見たくて無理に覗き込んだら、切れてしまったらしい。最近のコハシは、しかけや仕組みを確認したり、ネジを外して分解したりするのが大好きなようだ。破壊神から脱却したと安心していたが、別のステージに移行しただけだったらしい。

とびだす!うごく!のりもの (てのひらえほん)

とびだす!うごく!のりもの (てのひらえほん)